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2009年11月17日(火) 
 昔は町中でよく見かけた煙突。その筆頭は銭湯だった。午後3時頃になると、煙突から吐き出される黒い煙を見て誰もが、「もうじき湯が沸くぞ」と、手拭いや石鹸を用意したものである。

 ほかにも町工場の煙突、事務所ビルの屋上に屹立する焼却炉用の煙突、家庭用フロ釜の煙突など、日常風景の中にたくさんの煙突たちがあった。

 『キューポラのある街』では、鋳物工場の煙突から煙がたなびいていたし、『天国と地獄』では街中にある病院の焼却炉の煙突から赤紫色の煙が昇っていた。
 
 古くは「煙突男」も流行った。
 昭和5年、富士紡績川崎工場が折からの不況による経営難に陥り、従業員378人を解雇。残った工員の給料も10%カットするというなかで、労農党傘下の組合がストライキに突入した。
 
 争議はさらに進み、組合側は経営者に対抗するため、工場の煙突に登りこれを占拠する策に出た。
 歴史に残る煙突男になったのは田辺潔(28)。組合の応援に来ていた横浜市電気局の職員だった。

 彼が煙突に登ったのは11月16日。スルメ1束と焼酎1升を持ち込み、11月21日まで、あしかけ6日間がんばった。
 当時の「横浜貿易新報」は連日、大きな見出しを付けて詳細を伝えている。

 『大煙突上の闘士 空中から激励の演説』
 『富士紡付近は見物人で雑踏 一文菓子屋も大喜び』
 『おでん・かん酒の出店 1回2銭の望遠鏡』
 
 事件解決のきっかけは天皇陛下だった。
 神戸で行われた観艦式から帰京するお召し列車が、21日に現場付近を通過するという情報が流れたのだ。
 田辺が煙突に登ったままでは、お召し列車を上から見下ろすことになる。これでは警察官僚は不敬罪でクビが飛ぶ。

 そこで警察が組合側の要求を経営者側に認めさせ、田辺を煙突から降ろすことできたという。
 労働者を勝利に導いた「煙突男」は、これで一躍英雄扱いに。以後、あちこちの会社で同じ戦術が採られ、一時的に大流行となった。


 3年後の昭和8年、初代煙突男が掘割川で溺死体となって発見された。
 特高による拷問死、酒を呑みすぎての事故死、左翼仲間から疎遠になっての自殺…いろいろ取り沙汰されたが、真相は闇の中だ。


 煙突の思い出を辿っていたら、30年前の本牧の写真が出てきた。場所は米軍接収地。
 そこにはボイラー施設用の煙突が写っている。

 
 ▲小港にあった煙突(1975年頃)

 
 ▲本牧 東福院そばにあった煙突(1982年頃)

 
 ▲本牧十二天にあった煙突(1984年頃)

 以前、横浜シティガイド協会の嶋田昌子さんからこんな話をきいたことがある。

 「フェンスの向こうはアメリカ。朝の5時か6時になると、米軍施設のボイラーがボッとつくのよ」
 
 それは本牧、しかもボイラー施設の近くに住んだ人にしか分からない音だろう。
 周囲には特有の臭いもあったに違いない。

 音と臭い。

 昔の資料や写真を見て本牧の歴史を調べていても、所詮、実際に住んでいた方々の五感にはかなわない。


 かつてボイラー施設の煙突が何本も建っていた接収地は昭和57年に返還された。
 その跡地には今、アメリカ風の瀟洒な住宅が建ち並び、ボイラーに代わって暖炉の煙突から煙が出ている。
 

posted by よんなん

閲覧数4,220 カテゴリ本牧・本郷町の歴史 投稿日時2009/11/17 14:53
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