「令和元年度」夏季特別講演会 「偉人」のうらがわ -自筆書状からみる人間・伊能忠敬- を聞いて、講師の酒井一輔氏は経済学の専門家、伊能忠敬記念館学芸員として伊能忠敬について調べ、学習したとのことそれまで、伊能忠敬については殆ど知らなかったと。伊能忠敬は今では誰でも知る人になっているが、江戸時代の末期には殆ど知られていない人、また明治時代でも知られていない。大正時代になって国定の修身の教科書に載ったことによって「偉人」として知られるようになった。そして太平洋戦争が終わった後、国定の修身の教科書の乗っていた人々、明治天皇、楠木正成、新田義貞、吉田松陰、佐久間象山、本居宣長、二宮金次郎などの人々は姿を消してしまったが、何故か伊能忠敬だけは「偉人」として生き残っている。それは何故そんな疑問をもって「偉人」とは、時代背景で生まれてくる「偉人」、「偉人」の生まれ方に酒井一輔氏の視点が非常に面白い。 明治時代の新政府の仲間は殆どの人が「偉人」として持ち上げられている。吉田松陰なんかは何もしないうちに若く死んでいる。そして密航を企てただけ。そんな人が正四位を贈られている。そして伊能忠敬も同時期に正四位を贈られている。幕末に歩いて日本全国を測量し、正確な日本地図を作っただけの伊能忠敬。でも何故か正四位を贈られている。これは富国強兵の時代、地図は軍事機密上最重要なもの、それを正確に作ったということで、幕臣でも認めないといけなくなっていた。 定説されている伊能忠敬、誠実でコツコツとやる真面目な性格、誰しもそう思っている。また家業は早々譲って楽隠居、49歳になって第二の人生を送り始めた人という感じで理解されているが、実際の伊能忠敬は商売人として非常に優秀な人で、養子になったときより財産を3.6倍にもした。隠居するときは3万両の財産も貯めていた。非常に優秀なビジネスマンで勿論人が良いだけではない。出来る人にありがちなイヤな性格も併せ持っていた。修身の教科書には書かれていない。伊能忠敬は残っている手紙、帳面などが多い人物なので、それらからいろいろな事が見えてくる。今まで知らなかった伊能忠敬像を鮮明に浮き上がらせた講義はなかなか面白かった。弟子には厳しい厳しいが孫には優しい人間伊能忠敬が見られた。 同じような人として伊藤若冲がいるが、彼も青物屋(八百屋)の商い人だった。人にはイヤでイヤな仕事で早々、引退してその後好き三昧に絵を描き始めた事になっているが、実際は相当なやり手の商売ではなかったのか?そんな感じがした。 この講演会好評で、横浜古文書を読む会会員72名、一般の方90名(先着順)で受け付けたところ、それ以上の人が来られて、臨時の椅子を用意したりしてなるべく多く入って貰えるようにしたが、遅く来られて何人かには断らざるを得なかった。いつもの年は150名を越えることなどなかったのですが、今回は簡単に越えてしまった。 |