本日、中本牧コミュニティハウスにおいて「地域の知恵袋・リレー講座」が開催されました。 講師は岩太屋酒店2代目ご主人の岩田潤一さん(83)。 岩田さんは本牧生まれの本牧育ち。酒店は父親の代から始めているのですが、もともとは造り酒屋でした。その曽祖父が岩田太郎左衛門という名前だったことから、店名を「岩田屋」ではなく「岩太屋」としたそうです。 昭和15年、横浜商業高校(Y高)に入学。翌年12月には太平洋戦争が始まり、予科練の試験を受験するも失敗。 しかし人間、何が幸いするか分かりません。岩田さんは耳が悪かったため予科練に合格できなかったのですが、そのおかげで生き延びたと思っています。 昭和17年には早くも米軍の空襲がありました。南区堀の内方面が爆撃され、そのあと機銃掃射によって竹之丸幼稚園の園児が殺されてしまったそうです。 そして昭和20年5月29日の横浜大空襲。 『一面の焼け野原、鶴見から歩いてくると、関内あたりから本牧方面が見えるんですね、何もない中に山手のトンネルだけがポカッと黒い穴が開いていました』
戦後は食べるものが何もなかったので、両親がよく買い出しに行っていたそうです。配給が始まったのは昭和24年。 『当時は酒店といったって仕事がないから、西山牧場の牛を借りて日本造船の材木運びをやっていました』
今のお酒はビンやパックに詰めて売られているが、むかしは量り売りというのが普通でした。 『あの頃は樽酒でしたからね。樽から酒を汲み出して容器に入れて売っていましたから、複数の銘柄を混ぜることができたのです』
コーヒーでいうところのブレンドですね。
『そう、あの旦那さんにはコレとコレ。あちらの旦那さんにはコレとコレなんてね。それぞれの好みを把握していて作っていました。お客さんに美味しかったよと言われると嬉しかったですね』
このあと、お話しは市電のことや、箕輪という地名の由来、野戦病院となった大鳥小学校などに広がり、1時間半という講演+団欒タイムはあっという間に過ぎていきました。
次回は本牧2丁目南部町内会会長のお話です。孫文を支援した人々と昭和20年8月15日の体験などがお聞きできるとか。 今から楽しみですね。 |