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2011年11月16日(水) 

 9月26日、中本牧コミュニティハウスにおいて、 本牧の歴史や昔の街並みを学ぶ講座「本牧通り物語Vol.6」が開催された。 今回は「千代崎川の歴史を残す会」の長沢博幸さんが、 「千代崎川と外国人遊歩新道」と題して講演を行った。

 

 本牧通りとほぼ平行に流れている旧千代崎川。 かつては近隣の田畑へ水を供給する役目を持っていたのだが、 千代崎川の周囲にも人家が増え、本牧の町が市街地化されていくと、 川の汚れや悪臭がひどくなってきた。

  そのため昭和31年(1956)から川にフタをする工事が始まり、 昭和38年(1963)には暗渠ができあがった。 その前年に中部下水処理場が完成していたので、 旧千代崎川は公共下水道として利用されることになった。 そして平成20年からの下水道再整備で工事が始まると、 段差のあった橋跡や極細の歩道なども同時に改修されて、 歩きやすい道路に生まれ変わった。

 

 千代崎川の源は根岸と山手の丘陵であり、 そこから生まれた猿田川、簑沢川、江吾田川が山元町付近で合流して千代崎川となり、 柏葉、麦田町、大和町、上野町、千代崎町、北方町、本牧町、小港町を流れ東京湾に注いでいた。 古くから川は水田に使用され、また雨水の排水路となっていたが、 川幅が狭く、屈曲が多く、川底が浅かったのでよく氾濫した。

 

(中略)

 

  関東大震災後、復興・復旧事業で災害を防ぐ目的で、 川の流路を変えて曲がりを少なくし、浚渫、護岸工事を行い、 同時に24の橋が架けられ、これらは震災復興橋と呼ばれている。 戦争が始まるとこの橋の欄干の金属は軍に納め、 木等で補修された。

  昭和37年(1962)に中部下水処理場ができ、 それにあわせて千代崎川は公共下水道となり、 川筋は最下流を除きすべてが覆蓋され、旧千代崎川となった。

 

参加者によるビデオ撮影

 

東泉橋の親柱は大鳥小学校の中に保存されている。

 

川が現役だった頃の写真。

 

和親橋なんていう橋もあった。 近くにはワシン坂がある。

 

川に面した家が多く、個人橋がたくさん造られていた。

 

現在の上州屋の所がかつては上台市場だったため、 そこに架かる橋を市場橋といった。 この親柱は現存。

 

鷺山から上流はあまり知られていないが、 こんな橋があった。

 

千代崎川の上流は3つに分かれていた。

 

江吾田川の源流は根岸森林公園だ。

 

講演後、質疑応答があり、 本牧地域の移り変わりを交えて話し合った。

 

posted by よんなん


閲覧数3,638 カテゴリ本牧・本郷町の歴史 コメント4 投稿日時2011/11/16 23:09
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