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2009年12月16日(水) 
 昭和レトロ感あふれる喫茶「アンデルセン」。

 今日はご主人の柳田さん(85)から終戦前後のお話をお聞きしてきた。
 彼が招集されたのは大学生のとき。陸軍の兵隊として中国に送り込まれ、各地を転戦してきた。
 その間、米軍のP51戦闘機から機銃掃射を受けたこともあったが、強運の持ち主なのか、それらを潜り抜け生き延びてきた。

 あと3ヶ月で終戦という1945年5月、柳田さんは日本に帰国する兵隊仲間たちと別れて、さらに満州へ向かうことになる。しかし、これが生死の分かれ道となった。帰国する兵隊たちは汽車に乗せられて黄河の鉄橋を渡っているとき、米軍機による爆撃を受け川に転落し沈没。全員、帰らぬ人になったという。
 
 日本に帰れるはずだった人が帰れず、戦地に残された人が帰ることができた。人生、何が転機になるか分からない。

 
 ▲喫茶「アンデルセン」の外観(本牧町1-98)
 1945年8月、柳田さんは上海で終戦を迎えた。
 しかし、日本に帰ることはできず、そのまま捕虜として残されてしまった。
 内地に戻る日本人を見ながら、自分はいつ帰還できるのか思い巡らす毎日だったという。

 捕虜の間にやっていたことは、日本に帰る人たちが置いて行く軍票の回収と保管。(軍票というのは戦争中に占領地において軍隊が現地で物資を調達するために発行される擬似紙幣のこと)
 戦争が終われば、どんなにたくさん軍票があっても、もはや使うことのできないお金。そんなものを大量に抱えていたある日、米軍の兵隊が声をかけてきた。

「その軍票の中に香港上海銀行の紙幣が混じっていないか?」

 まさかそんなものが入っているとは思ってもいなかった柳田さん、軍票の束をめくっていくと中から本当に紙幣が出てきた。
 米兵は、それをくれと言う。
 捕虜の身では軍票と同様、香港上海銀行の紙幣だって使うことはできない。
 どうせ自分の金ではないし、あるだけの紙幣を彼に渡した。

 それから米兵がしばしば来るようになり、そのたびに紙幣を差し出していると、だんだん親しくなってくる。何日か経ったころ、米兵が大量のチョコレートを持ってきた。それはそれは、美味しいHERSHEY'Sのチョコだった。

 
 ▲軽食もやっている。カレーライス500円!
 しかし、いくら美味しいといっても、一人で食べ切れるものではない。
 そこで、帰国者を乗せる引き揚げ船「氷川丸」が入港するたびに、乗務していた看護婦にそれをプレゼントしたら、おおいに喜ばれたという。

 やがてご主人も日本に帰還できる日がやってきた。しかし帰国しても、住む所も仕事もない。
 故郷の広島は原爆で壊滅していた。
 上海で紙幣とチョコで親しくなった米兵に、横浜に行ったら進駐軍の事務所に行き、〇〇という下士官に相談するよう言われていたので、そこを訪問する。

 
 ▲店内には歴史関係の書物がたくさんある。中区史も!
 しかし、目的の人物は不在で、代わって応対してくれたのが日系2世の兵隊だった。
 いろいろ話していると、彼の親は移民で、偶然にも柳田さんと同じ広島の出身ということが判明。
 日系2世だから日本語も喋っていたが、それは恐ろしく古い広島弁であった。(つづく)

posted by よんなん

閲覧数3,821 カテゴリ本牧・本郷町の歴史 コメント1 投稿日時2009/12/16 16:58
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