今から30年前、朝日新聞で「華僑 神奈川の中国人」と題する連載があった。華僑社会のために尽力した人びとが何人かシリーズで取り上げられていたのだが、その中に孫文を助けた最後の華僑として温恵臣さんという方が紹介されていた。当時、100歳近い最年長の横浜華僑だった。 連載記事には、こんなことが書かれていた。 長い間、英国商社の支配人をされてきた温恵臣さんは1880年、広東省香山県の生まれ。孫文と同郷だ。 幼い頃、生まれ故郷では「滅満興漢」運動が活発になっていた。激化する内乱のなかで、弟は戦死し、革命運動に参加していた兄は日本に亡命。一家は離散したという。 1893年、その兄を探すためドイツの帆船で香港から横浜にやって来た。辮髪を切り落とし上陸すると、横浜居留地151番地に居を構えていた兄、温炳臣さんを探し当て、その日から兄夫婦の家に住み込み、外国商社で働くようになったという。 それから2年後、孫文が日本に亡命してくる。最初は居留地52番地、馮鏡如の家に潜んでいたが、その後、温炳臣さんが彼をかくまうため自宅を隠れ家に提供。温恵臣さんは、兄の指示で亡命者のための買出しをしたり、荷物の運搬を行った。 1898年から1902年まで、横浜の華僑社会は亡命のラッシュを迎える。多くの革命派がこの地に潜み活動していた。1905年、中国革命同盟会が結成されると、温炳臣さんはブレーンとして参加、温恵臣さんも第一期会員として入会した。 これが、その後の辛亥革命の母体となる。兄弟で同盟会に入会したわけだが、二人の進む道は異なった。兄は家庭よりも革命運動に熱中していたのに対し、温恵臣さんは少し違う生き方をしてきた。革命にも協力するが、同時に家族も大切にするという、マイホーム型の華僑だったのである。 英国商社に勤め、日本支店の総支配人となって地道に働き、大成功を収めた温恵臣さんだが、80年以上の華僑生活の中で、二度、丸裸の生活を体験する。 最初は1923年の関東大震災。当時、温恵臣さんは中区内に400坪の屋敷を構えていたが、頑丈な造りだったおかげで建物は倒壊しなかった。そのとき彼は、「みんな私の家に来なさい」といって、多数の華僑被災者に自宅を開放した。屋敷はたちまち50人を超える人びとでいっぱいとなり、以後、数年にわたって食べ物、衣類、仕事の世話をしたという。30年かって築き上げた私財を惜しげもなく投げ出したのだった。 もう一回は1945年。太平洋戦争が終わって、当時経営していた服地問屋と中華料理店をたたみ、故国へ帰る決意をする。必要なくなった不動産をすべて日本人の支配人に無償で与えて船を待つ。 ところが中国国内で内戦が始まり、帰国を断念することに。しかし、いまさら日本人に与えた店を返してもらうわけにはいかない。再び裸一貫で生活を始めることになった。外国商社を渡り歩き、楽しく仕事を続けていったという。 そんな新聞の連載記事を読んだのは30年も前のことで、温兄弟のことはなんとなく記憶の彼方に過ぎ去っていたのだが、つい最近、4南元気づくりの会で行った「町あるき」の際、地元の方から「温炳臣さん」の名前が飛び出してきてビックリ。 戦後は本牧町2丁目に住んでいたというのだ。 意外な情報だった。本牧と中華街、いろいろと関係があると思っていたが、辛亥革命まで繋がっていたとは…。 |