さる6月21日(火)、中本牧コミュニティハウスにおいて、地域の連続講座「本牧物語Vol.5」が開催された。
講師は本牧2丁目で輸入衣料品・雑貨を販売する「本牧OZ」の店主、野田栄さん。 彼は昨年の12月10日のVol.4で語っていたのだが、参加者からもっとお話を聞きたいという声があがり、今回はその続編ということで開催されたもの。
前回は教室形式だったが、今回は円形の講座にしていた。 もちろんパソコンやスピーカーなども投入して、音楽と映像を交えながらお話を進めていくようである。
参加者がほぼ揃ったところでスタート!
以下、そのときの模様を再現してみた。
質疑応答はないですよ。話したいこと、聞きたいことあったら、その場で喋っちゃってください。 私も知らないことがあるし、間違っていることもあるのでね。曽祖父が話していたことを親戚から聞いた話も入っていますし。
リンディは日本初のディスコだった、なんていう有名な話から、エイトマンのモデルは、ここから半径100メートル以内の場所にいた、という初公開のネタもあります。 レジメに項目を書いてありますので、皆さんからお題を頂戴したいと思います。
市電が走っていた頃の本牧・・・ 本牧のファッション・・・ ユーミンの「海を見ていた午後」の本当の話・・・
本牧通りが広いのは、むかし電車が走っていたからなのね。横浜駅東口の辺りは混雑してひどかったけど、本牧はすっきりしていた。 当時の本牧の写真を回しますので、見てください。フェンスの前を走っている市電の思い出がよみがえるでしょ。
この当時はいろいろなお店があった。食べる所はイタリアンガーデン、リキシャルーム、ベニス。 踊りならリンディ。音楽を聴くのはゴールデンカップ。 米軍が来てから本牧が変わっていきました。
当時は日本人もハウス内に入ることができたんです。ID持っている知人と一緒にね。 フレンドシップデーとか日米親善盆踊り大会はPXの前でやっていました。 ベースには自販機もあって、ドルで買うことができたので、日本の中学生もコインを持っていた。 日本では売っていないものが買えたんですね。口の中が着色料で真っ赤になるやつとか。 根岸でやっているフレンドシップデーでは、今でもドルが使えるので雰囲気が味わえます。 私のお店「本牧OZ」でもドルでの支払いが可能です。海外旅行で残ったドルを持って買い物に来るお客さんが今でもいる。 そんなフレンドシップデーで売っているピザ、アントンピザは丸いけど、本牧のピザは四角型。リキシャルームから始まったんです。 潜水艦に乗っていたコックがいて、その人が作っていた。だから、ピザというのは四角いものだとずっと思っていました。
アメリカの音楽も横浜から広がっていきました。 アメリカから本牧に入ってきたレコードを、ザ・ゴールデン・カップスの前身のバンドが2週間くらいでコピーして演奏していた。 日本のどこにもない、本牧だからこそできたバンドだった。 それをアメリカの兵隊たちが聴いて認められていたんです。 「ゴールデンカップ」の中はアメリカ人がたくさんいて、なかには客同士で喧嘩しているなんてことも。 それでもバンドの人たちは演奏に集中していた。 ビートたけしが横浜で荷役のアルバイトをしている頃、「ゴールデンカップ」に来たけれど怖くて入れなかったという話も残っています。
ザ・ゴールデン・カップスの基となった曲が1968年の「ジス・バッド・ガール」でした。 http://www.youtube.com/watch?v=Af5MOhJ6Ej0 作曲がルイズルイス加部、作詞はケネス伊藤。
忌野清志郎もゴールデン・カップスに憧れ慕って来ていました。横須賀から出たザ・ジャガーズもカップスの傍にいた。 ギターのチャーもカップスが好きだった一人。 ミュージシャンたちがルイズルイス加部の家で打ち合わせを終えると、「OZ」の隣にあった中華料理屋で食べて、そのあと「OZ」に来て話し込んでいったもんです。 金子マリもいたし、その夫はドラムをやっていた。今では、その子どもたちがバンドを組んでいます。 ゴダイゴのミッキー吉野。彼はカップスのメンバーだったし、柳ジョージもそうだった。 横浜市歌のブルースバージョンを歌っている中村裕介は、カップス解散後のサポートメンバーです。 ちなみに彼はダイクマCMの製作プロデューサーで、「ダイナミック ダイクマ~♪」と歌っています。 http://www.youtube.com/watch?v=mxOr7Z6tOy0&NR=1
こんな感じで、本牧の音楽、カップスの音楽を引き継いでいるミュージシャンが多いのです。 本牧発のファッションはその音楽に付随しています。
芸能人がうちの店に来て「980円のシャツ、10枚」とか買っていく。これは「付け人にあげるんだ」なんて言っていたけど、テレビ見たら本人が着ていたなんてことも。でも、そのあと、それをあげるんでしょうね。
加部さんのベースはリードギターのような早弾きで、これ以降、ベースの弾き方に影響を与えました。 彼らは和製ポップスを歌いたくなかったようだが、「長い髪の少女」が大ヒットし、アルバムの販売枚数はビートルズを超えました。 http://www.youtube.com/watch?v=bBHFz1vrc6c
彼らはヒットしている曲は生ではやらなかった。いつも聴いていたのは、英語の曲でした。
服装も他のバンドとは違っていましたね。当時流行のグループサウンズはミリタリールックスみたいなのを着ているグループが多い中、まったく私服でした。 それが本牧のスタイルだったのです。 ハーレーダビットソンのTシャツなんか、うちが最初に輸入して販売しました。それから3年くらいして日本でもヒットしたんです。 本牧では日本の他都市に先駆けて、アメリカから新しいものが最初に入ってきました。それが音楽であり、ファッションだった。 本牧ファッションというのは、まだ誰も着ていないものをコーディネートして着ること。 米軍が本牧にいたから、この流れがあった。音楽もあって、ファッションもあった。 そして、憧れがフェンスの中にあったのです。
ユーミンの「海を見ていた午後」の本当の話? ユーミンとアンルイスはデビューが同じ頃でした。 アンルイスの父親は本牧のベースで働いていたんだ。だから彼女も中に入ることができたのね。 ユーミンは東京の人で、本牧に憧れていたと思います。 そんなことから、ユーミンはアンルイスと一緒にベースに遊びに行ったりしているのでした。 いつだったか、彼女は不動坂上の「ドルフィン」に行って、窓辺から横浜港やその先を眺めていた。 そこで「海を見ていた午後」を作曲し、「~山手のドルフィンは 静かなレストラン 晴れた午後には 遠く三浦岬も見える~」という歌詞で風景を描写しているのです。 http://www.youtube.com/watch?v=Zqym-Llrsb8
しかし、ここで言う三浦岬って、どこ? ここから見えるのは観音崎! しかも、三浦岬なんて実在しないでしょ。 横浜の人じゃないから、よく分からなかったみたいですね。 その歌に出てくる「ドルフィン」は、『少年ケニア』の作者である山川惣治が開いた店だったというのは有名な話です。
70年代にゴールデンハーフというグループが出てきて、ハーフが流行しました。 小山ルミとかエバ、こういう人たちが本牧通りを普通に歩いていた。店にもよく来ました。 新しい人ではクリスタルケイ。彼女は大和町でピアノを習っていましたよ。
あの頃は芸能人、歌手だけでなく、一般の女の子もディスコ「リンディ」に集まっていました。 ここでは男は女性と一緒でなければ入れなかった。だから男だけ来た連中は、外で女の子と交渉して一緒に入店したものです。 中は真っ暗で、懐中電灯で足元を照らしてもらって入るんです。車の中がDJボックスになっていました。 夜11時になると山手警察署の警官が来る。18才未満の連中やマリファナの取り締まりだったのです。
マリファナというのは麻の葉っぱを利用したもので、医薬品としても使われています。 だから国によって取り扱いが違う。オランダなんかでは合法なんですよ。
60年代から70年代にかけてはベトナム戦争の時代でした。 2週間の休暇をとって店に来たアメリカ兵が「行きたくない」と言っていました。でも、休暇が終わって再びベトナムへ向かっていった。 徴兵で戦場へ行かなければならなかったのです。人殺しはしたくないいが、自分の身を守るには…平常心ではいられずマリファナでテンションを上げ戦闘へ。もちろん限度は知ってやっていた。当時、アメリカのいくつかの州では合法でしたし。でも、マリファナを吸うならビール2、3本飲んでいい気持になった方がいいと米兵は言っていました。 子どもたちは「本牧1丁目から向こうは行くな」と言われていた時代でした。
エイトマンのモデルは本牧2丁目にいたという新ネタ。 「エイトマン」という漫画は横須賀のSF小説家、平井和正が原作で、原画は桑田次郎でした。 あるとき、「月光仮面」の原作者である川内康範と、桑田次郎、本牧2丁目に住んでいた人などが我が家でマージャンをやっていたのですが、そのとき一緒にいた本牧2丁目の人の子どもの顔をモデルとして、あのエイトマンの顔ができた。だから、エイトマンは童顔なのね。 テレビ漫画「エイトマン」の提供は丸美屋で、あの「ふりかけ」の中からエイトマンのシールが出てきたもんです。 http://www.youtube.com/watch?v=yMcYMyYWQwk
次のお題はヤンキーの語源ね。 みなさん、ヤンキーと言ったら何をイメージする? 野球のニューヨーク・ヤンキース、それからアメリカ人全体をさす言葉ですね。 でも、最近はヤンキーな兄ちゃんなどという使われ方をして、不良とかそれっぽいファッションを意味するようになってしまった。 もともとは南北戦争のころ、南部の人たちが北部の人間をヤンキーと呼んでいました。 その後、アメリカ人全体を指すようになったんだけど、これを間違って使うようになったのは関西なの。 大阪にアメリカ村というのがあって、そこで売られていた派手なアロハシャツを着て太いズボンを履く不良をヤンキーというようになった。 こんな服装は本当のアメリカっぽさがない。 彼らは、お尻を地面につけてしゃがみこみ、タバコをすっていたりするので、こんな座り方をヤンキー座りともいいます。 そして、嘉門達夫の『ヤンキーの兄ちゃんのうた』がヒットして、間違った使われ方が日本全国に広まった。
昔は東京の有名人が第3京浜を車ですっ飛ばして本牧に来ていた。石原裕次郎とかね。 一直線のところでは時速200キロも出していたそうだ。 それで本牧に来ると、広々としたアメリカンな風景が広がっているわけで、みんなこれで参っちゃったんだよね。
この歳になると、なかなか言葉が思い出せなかったりするんだけど、当時の音楽を聴くと昔のことを思い出してきます。 今後は「リンディ」を再現してみるとか、昔の本牧を再現するイベントみたいなもの、あるいは昔のウッドストックみたいなこと、そんなことができたらいいなと考えています。
最後に柳ジョージの「フェンスの向こうのアメリカ」を聴いていただきましょうね。 http://www.youtube.com/watch?v=RFRT4HNsjWY
昨日の「タウンニュース」に今回の講演のことが掲載されました。
posted by よんなん |