寒い中を1時間近く商店街ツアーをしてきた参加者は、暖かい紅茶と「けーきや よこ」のシュークリームが待つ上台集会所へ。
「安田屋呉服店」店主から交流会の進め方についてお話があった。
座長は本牧在住で町に詳しい嶋田昌子さん。横浜シティガイド協会の副会長でもある。
嶋田 戦後の思い出からお聞きしたいと思います。 石田 小港から間門方面は占領されていて、まるでアメリカの植民地にいるような雰囲気でした。本郷町は戦後、真っ先に復活しました。日本のいいにおいを残していたと思います。 多田 昭和22年からクリーニング店をやっています。昭和30年ころには、この辺にクリーニング店が15~20軒くらいありました。米軍の仕事が多かったのです。今では取次店が多くなり、いわゆるクリーニング店は5、6軒になってしまったようです。うちの店では機械化せず、手作業でやってきました。 米軍将校は家庭で洗濯していましたが、兵士たちは下着から何からランドリーバッグに入れてクリーニングに出していました。日本人はワイシャツにノリを利かすけれど、彼らはノリなしの仕上げでした。逆に、こっちの方が難しいのです。女性兵士も出していましたが、シンプルなものでしたね。 洗濯物を出すランドリーバッグに、ハーシーの板チョコなんかを入れてくれていました。美味しかったですよ。 勝瀬 ボングー洋装店は昭和24年に本郷町で開始しましたが、もともとは長者町、本牧2丁目でやっていました。本牧町のときは「シスター洋装店」という名前でした。 先代の渋谷英行はカナダで生まれ7歳までいました。そのため英語が上手だったのです。 お客さんのほとんどが山手の外国人でした。いちばん印象に残っているのはオメガのアングストさん。同時並行で何着も作り、しかも1着に1年かけてもいいくらい、納得がいくまで縫い直していました。 仮縫いはいつも午後2時。5ミリでも気に入らないと直していました。ホックの幅だけ詰めるというような作業を繰り返したものです。 彼女が中禅寺湖で避暑をしているときには、キャデラックの送り迎えでブラウス1枚を持って行ったこともありました。 渋谷英行は商売気のない職人肌の人で、英語も達者だったから外国人のお客さんが大勢付いていたと思います。 佐久間 フトン屋も当時は22軒もありました。まだベッドなんか無かったので、マットレスを5,6枚重ねてベッドに仕立てて米軍ハウスに納品していたのです。 多田 当時は15,6人使って、山手や伊勢佐木町まで御用聞きに行っていました。周りには外国人だらけだったので、外国人に対する違和感はないですね。 勝瀬 あの頃は、本郷町周辺だけでも、13軒くらい洋装店がありました。 村田 タカハシガレーヂでは当時、たくさんの外車を修理していた記憶があります。 勝瀬 ミスユニバースの伊東絹子のドレスは、今なら相当な値段だと思います。私たちは10月から12月までは休みなしで働いたものです。 交流会が終わったあと、会場に持ち込まれていた写真やスタイル画などを見学。
「けーきや よこ」のシュークリーム。スワンの頭に帽子を載せてみた。
(つづく) |