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以前、写真の裏焼きについて何回か記事を書いてきたが、それらはあくまでも、これから書こうとすることの導入部だった。 http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=24827 本命は大神宮山にあったヴィラ・サクソニアの写真である。 フランス領事公邸の風車を再現するにあたって参考とした風車と建物の写真だ。 ヴィラ・サクソニアについてはこちら↓ http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=19429 今まで山手にあったとされてきたヴィラ・サクソニア。その本当の所在地を『古壁ウォッチング』氏が大神宮山と突き止めたのであるが、そこからさらに進んで、今度はbaron1948氏が大 … [続きを読む] |
本牧ナポリタン試食のあとは、中区歴史保存会の大谷卓雄さんによる「町の記憶 ~写真とお話で振り返るチョット前の本牧~」と題した講演が行われた。 まず最初に映し出されたのは、この日会場となった上台集会所の位置にかつてあった市場の写真。 当時は本牧公設市場という名称で、関東大震災前の大正7年12月にオープンした。 『横浜近代史総合年表』(有隣堂/松信太助編/石井光太郎・東海林静雄監修)によれば、本牧町字上台に市設上台小売市場が設置されたのは大正15年6月。 そこから考えると、本牧公設市場は震災で倒壊し、その後 … [続きを読む] |
昨年11月、地元町内会長などの案内で、本牧満坂、本牧緑ヶ丘、本牧町を歩いてきた。 これまで一人で何度となく見てきた光景が、地元の方々のお話を聞きながら改めて眺めてみると、ものすごく新鮮なイメージで目に飛び込んでくる。 その一例がこの石垣。 本牧緑ヶ丘の住宅地を造成したときに造られた石垣だとばかり思っていたら、そうではなかった。 宅地造成は昭和40年代。 しかし、この石垣はそれ以前からあったという。 町内会長の話では、これは接収地時代に米軍が使っていた6万ボルトの送電線用鉄塔跡地。鉄塔の周囲を支えて … [続きを読む] |
終戦後、上海から帰還した柳田さんは、横浜で中国人コックの手伝いの仕事を見つけた。 しばらく見習いで働いたあと、次に得た仕事は米軍将校の家での料理人。 最初はボーイで入りたかったのだが、相手の求めているのがコックだったのである。 正式には料理人とはいえない経歴だったが、そこはハッタリで採用された。 喫茶「アンデルセン」 毎日、近所の人たちで賑わっている。地域の“居場所”のような存在。 当時、本牧の接収地に住んでいたのは下士官と兵隊で、将校は山手の高級住宅に住んでいた。 柳田さんを採 … [続きを読む] |
昭和レトロ感あふれる喫茶「アンデルセン」。 今日はご主人の柳田さん(85)から終戦前後のお話をお聞きしてきた。 彼が招集されたのは大学生のとき。陸軍の兵隊として中国に送り込まれ、各地を転戦してきた。 その間、米軍のP51戦闘機から機銃掃射を受けたこともあったが、強運の持ち主なのか、それらを潜り抜け生き延びてきた。 あと3ヶ月で終戦という1945年5月、柳田さんは日本に帰国する兵隊仲間たちと別れて、さらに満州へ向かうことになる。しかし、これが生死の分かれ道となった。帰国する兵隊たちは汽車に乗せられて黄河の鉄橋を渡っていると … [続きを読む] |
『中区史』本牧編では、地域の開発や花屋敷建設に携わった工事業者のことに触れています。 その業者というのは「平塚組」。 以前、このブログ内で取り上げた童話作家・平塚武二の父親が経営している会社でした。 【以下、中区史より】 この一帯の埋立整地工事は、平塚組や長坂組という土木業者が沼を埋立て、湿地に盛土して、原三渓の地域開発の構想が実現したのであった。 工事の従事者が多いときは1000人にのぼり一時的なにぎわいとなった。このことはのちの三之谷商店街が発生する遠因となったとされている。 童話作家の … [続きを読む] |
よくあることだが、本牧の開発は電気鉄道の敷設とセットで行われている。 阪急電鉄と沿線周辺の宅地分譲、東急電鉄と洗足や田園調布の分譲開発など、鉄道と宅地開発とは密接な結びつきがあるものだ。 中区の区制50周年を記念して発行した『中区史』の本牧編にこんなことが書いてある。 横浜電気鉄道株式会社による電車鉄道は明治44年(1911)12月に敷設された。地区内は山下町西ノ橋から本牧町字宮原間であった。 停留所は麦田町、上野町、千代崎町、台、小港、そして終点が宮原で、これらの停留所の周辺から人家が建てられていくこと … [続きを読む] |
毎年、お馬流しで使う6体の「お馬」は、本牧箕輪の羽鳥家と決まっているそうだ。 しかし羽鳥家というのは本牧にたくさんある。どこの羽鳥さんなのだろうかと「中区史」を見たら、屋号が「やぶ」ということが分かった。 区史の別冊に昔の記憶絵図が載っている。そこに「やぶ」という屋号を見つけた。 本牧神社の茅場。これでお馬を作るのだろうか。 『横濱繁昌記』という本がある。明治36年に横浜新報社が発行したものの復刻版なのだが、これを読んでいたら、伊勢山太神宮という記事の中に羽鳥氏のことが書かれているのを発見した。 それによる … [続きを読む] |
地域の厄災を込めた「お馬」。それを船で本牧沖合いまで運び海上に流してしまう神事が「お馬流し」である。 その由来は、『本牧のあゆみ』(新本牧地区開発促進協議会発行)によると3つの説があるという。 (1) 鎌倉時代に和田山が軍馬の放牧地であったころ、死んだ軍馬を海に流したことが始まりだという説。 (2) むかし疫病が流行り、その悪魔を流すためという説。 (3) 「お馬」は「御魔」であって、邪神を流してしまうためという説。 どれも、もっともらしいのだが、胴体が亀の形をしている理由には触れていない。ただ、厄災を流すこと、疫病に追いかけ … [続きを読む] |
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